独立時計師特集【第3回】監修:藤野
バーゼルワールドの思い出
私がシェルマンに入社したとき、フィリップ・デュフォー氏のシンプリシティー、アンデルセン氏のヴォワヤージュが予約受付の段階でした。
シェルマンが力を入れて独立時計師の時計を日本に向けて紹介していた時期で、代表からは予約の枠を早く埋めろとはっぱをかけられていたのを覚えています。
私が実際に独立時計師の方とお会いした話の前に、皆さんに当時のバーゼルワールドがどのようなものか想像できるように私の思い出を交えて説明しましょう。
当時世界最大の時計見本市で、この期間中はバーゼル価格となりホテルなどが一斉に高くなります。次年度の予約もすでに満室になる街を挙げてのイベントなのです。ライン川が流れ、トラムが充実しているのでバス、電車はほとんど必要ありません。
バーゼルはスイス、ドイツ、フランス3か国の国境をまたいでおりバーゼル空港はスイスとフランスが共同で運用する非常にユニークな空港で、今ではユーロエアポートという名称になります。
ここは空港コードも3つあり、フランス国内線だとミュールーズ(MLH)、スイス国内線だとバーゼル(BSL)、そして国際線はユーロエアポート(EAP)となりますが、結局一つの空港です。
また、空港内に国境があるわけですから同じ飲み物、食べ物でもスイス側では約1.5倍になるわけです。
マクドナルドのチーズバーガーセットが2500円でお姉さんのバイト時給が2500円とこの当時から日本と賃金格差があったのかもしれません。
バーゼルワールドに行くときのスーツケースは半分空にすることと1泊分の着替えは手荷物で持っていくことが義務つけられていました。理由は、会場内で大量の資料を持ち帰るためです。もう一つは当時スーツケースが他の空港に行ってしまうということが多々ありましたのでこのような対策をしたわけです。
大小さまざまな時計メーカーが軒を連ね別棟にアジア館まであり、1週間ではとても見切れない規模です。体力勝負なのです。私が参加したときは70年代の復刻版を発表しているブランドがありモバードのデイトロンの復刻版が大変印象に残り帰国後購入しました。元々はエルプリメロを装備していましたがそこはETAムーブとケースをサイズアップしての復刻となっていました。
そのような過酷なフェアですので当然過労から体調を崩すのも当然で帰国時に熱をだしてしまいました。
帰国する際午前中の便でバーゼルからハブ空港である、フランスのシャルルドゴール空港に行くわけですが、雪の為出発が1時間遅れたのです。
この段階でトランジットはアウト。ご存じのようにシャルルドゴール空港はとてつもなく巨大な空港でエールフランス・JAL共同運航便のカウンターにたどり着いた時は時すでに遅し。
日本人の女性カウンタースタッフに「残念です。もう飛び立ちました。では変更手続きをお願いします。次の便に空席があります。9時間後のご出発です」ということでサンドイッチとコーラ1本を渡されて空港で一夜過ごすことになりました。
夜になると売店もしまります。
今みたいに通信環境も良くなくネットで時間をつぶすこともままなりません。
やっとメールが送れたと思いきや日本からの回答は「成田に着いたら事務所に来てください」「熱があるんだけどそれでも直帰はだめなのか」と押し問答。
さらに座席は後ろから数えた方が早い中央の5列の真ん中と心が折れました。
12時間のフライトでようやく成田に着くも不調でしたので直帰しました。
本来なら前日の夕方に帰国していたはずが翌日の昼過ぎでしたから。
今となっては笑い話ですが海外出張の大変さを思い知らされました。
その中で、私は独立時計師の方とお会いし、このように交渉致しました。
アプローチ方法
私がスイスのバーゼルワールドに出向いた時のことです。その時、私は次に導入する時計を探しに広大な会場を所せましと駆けずり回っていました。
一見大変そうに聞こえますが当時独立時計師のブース番をしており一日中英語とお茶くみならぬビール汲みと昼食も取れずじまいで、会場で売っていた2000円のサーモンサンドを泣きながら食べていたことを思い出しました。
そこで出会ったのが、ローラン・フェリエ ブースのスタッフとトーマス・ニンクリッツ氏のブースです。
日本に帰国後、彼らのスタッフがシェルマン銀座店にお越し頂いたのですが、ローラン・フェリエ氏は、その時計を手にしたとき、まさにザ・パテックと言わせる程の作りで陶板のブラックダイヤル、針の造りこみなど、大変魅力的に感じました。
当時の代表が難色を示し、残念ながら交渉はご破算になりました。
近年、ローラン・フェリエ氏の時計はますます注目を集めており、今となってはもったいないことをしたと考えております。
ネゴシエーション
さて、トーマス・ニンクリッツ氏になりますが、こちらも私たちが直接交渉させていただきました。トーマス・ニンクリッツ氏は、ドイツ・ニュルンベルクの独立時計師で、幼い頃から時計作りに携わっていた時計職人の一家の生まれです。
1990年にニンクリッツの家族がニュルンベルクに引っ越して以来、アンティークウォッチや置き時計、街時計などを修復するスペシャリストとして活動しました。
時計作りはトーマス・ニンクリッツ氏の情熱であり、彼は仕事を通じて得た喜びの一部を、顧客が購入する時計を通して伝えたいと考えていました。
2017年に旧友のトーステン・ハーマン氏に事業を引き継ぎ、現在は、ハーマン氏がニンクリッツ氏の意思を受け継いで、従来のコレクションを発表しています。
何が素晴らしかったのか
トーマス・ニンクリッツ氏のブースには、ヴァイスヴァーサが展示されていました。ニンクリッツ氏の「ヴァイスヴァーサ」は、ムーブメントの裏表が逆になっています。
次にドイツ規格ですから、ユニタスベースのキャリバーを3/4プレート仕様に変更し、7時位置の小窓に時・分を表示させるための変更、ブルースチールネジ、ゴールドシャトン、大きなスワンネックなど、かなり手のかかった時計になっています。
3/4プレートにはコートドジュネーブではなくグラスヒュッテストライプを、縦ではなく円状に仕上げています。
その結果、腕につけているときは常に美しいブリッジの仕上げと脱進器の動きを楽しめるわけです。トーマス・ニンクリッツ氏はもともと時計修復のエキスパートですので、全ての時計部品が手作業でチューンナップされています。
ニンクリッツ氏は英語がお得意ではないので、アシスタントのヒスパニック系の女性を介してコミュニケーションをとりました。そして、是非日本で紹介したいと考えました。
当時のやり取りとしては、半分買い上げ、半分委託で預かるというのが一般的でした。言葉のみで信用を取り付け、先にお金を振りこみました。時計は空輸で送られてきます。
こういったやり取りでは、お金を振り込んで送ってこない時計師もあった中で、信頼関係というものが重要視される取引となりました。
説明書の印刷などはシェルマンが作りました。保証書は本人のサイン入り、箱は豪華な小さめの木の箱、独立時計師が選ぶことが多いです。
その後、日本国内で、この時計を国内でメンテナンスできる職人を探し、パーツ供給のルートの確立、日本市場における販売・広告戦略を練り、販売に至りました。
結果、ニンクリッツ氏のヴァイスヴァーサは多くのお客様にご購入いただきました。
その後も、ニンクリッツ氏の時計は、機械式時計本来の魅力と温かみを感じさせるデザインが幅広く受け入れられており、今もなお高い評価を受け続けています。
独立時計師の一つの条件は複雑なものだけではなく今回のヴァイスヴァーサは「機械はシースルーバックから鑑賞するもの=時計を外す=不便」という物の見方から生まれました。
ただ表裏を入れ替えるだけではなく大改造が必要になるわけですからこういう発想ができることも一つの条件と言えるでしょう。
このように、出会ってからの交渉は粘り強い情熱と時計師に対する深い洞察力が不可欠であり、結果、交渉がうまくまとまったり、購入したお客様からのお礼を頂くときなどチョイスした時計が日本国内で紹介されることは、私の喜びの一つであるのです。
この記事を書いた人-監修
藤野
シェルマンを定年退社した元店長
製薬会社の研究開発からこの業界に入り、お金持ちにオールドパテックを売りまくる。
時計愛を拗らせてパテックからオメガやセイコーのデジタルウォッチまでこよなく愛する哲学者。
最近は昭和ノスタルジーとセイコーと愛犬のウィリアムに思いを寄せる
この記事を書いた人-
SY
イリスラグジュアリー新人時計ライター。
ブランドの歴史を研究中。