
第1回 パテック・フィリップの歴史
パテック・フィリップは1839年にスイス・ジュネーヴで創業された世界最高峰の高級時計ブランドです。オーデマ・ピゲ、ヴァシュロン・コンスタンタンと並び「世界三大高級時計ブランド」の一角を占めます。
創業者のポーランド人アントニー・パテックと、フランス人時計師ジャン・アドリアン・フィリップの出会いからその歴史は始まりました。
1932年からはスイスの文字盤メーカーのスターン家による家族経営を続けており、ジュネーブで最後の独立系時計メーカー=マニュファクチュールとして知られています。
アントワーヌ・ノルベール・ド・パテック
創業者の一人、アントワーヌ・ノルベール・ド・パテックは1812年にポーランドで生まれました。
16歳でポーランド・ロシア戦争に従軍するも、1831年に戦火を逃れるため、西ヨーロッパへ移住しました。
パテックは当初フランスに定住しましたが、後にフランス政府から不利な法令が発令され、スイスへの移住を余儀なくされました。
スイスのジュネーブで、時計製造の伝統と、彫刻師や七宝焼職人、そして宝石職人たちが織りなす技巧に魅了されました。
フランスの宗教革命で逃れてきた人々によってスイスの時計産業は築かれました。

©Patek Philippe

パテックは、移民たちとの交流を続ける中で、チェコ系ポーランド人の時計職人、フランソワ・チャペックと知り合いました。
1839年パテックはチャペックと共に、パテック・チャペック・アンド・シーを設立しました。
高品質な他社のムーブメントを購入し、自社の時計ケースに組み込み販売をしました。
パテック・チャペックは、パテックが事業から撤退するまでの6年間で、推定1000本以上の時計を製造したとされています。
会社は創業当初から成功を収めていましたが、パテックとチャペックの間の不和が深まり、最終的に二人は袂を分かつことになりました。
パテック・チャペック社が解散する直前、新たなパートナーを探していたパテックは、1844年にパリで開催されたフランス産業博覧会で、才能豊かなフランス人時計職人ジャン・アドリアン・フィリップと出会いました。
ジャン・アドリアン・フィリップ
フィリップは幼少期の頃から時計制作に携わり、すでにパリに小さな時計の工房を持ち、一定の成功を収めていました。
1845年、パテックと、チャペック社との契約が満了となり、同社は解散しました。
そして、パテックとフィリップは協力して新たな時計会社、パテック・アンド・シー社を設立しました。フィリップが技術責任者として製造工程の改善や新モデルの開発を行う一方で、パテックはマーケティングを重視し、アメリカからドイツ、イタリアからロシアまで広範囲に渡り外国の地を訪れ、ビジネスの規模を拡大させました。
1851年、同社は社名をパテック・フィリップに改名します。
同年のロンドン万博においては、当時世界最小の時計や、リピーター付きの懐中時計、そして、新しいリューズ巻き上げ・時刻合わせを載せた懐中時計で高い評価を得ました。
この博覧会において英国のヴィクトリア女王は、青七宝にダイヤモンドのバラがあしらわれたパテックフィリップの懐中時計を手に入れたとされます。
博覧会への展示がよい宣伝になることを理解したパテック・フィリップは、以降、万国博覧会への出展と、海外市場への進出をさらに加速させていきました。
1855年の年間の生産数は1300本にまで増えていました。
そして、60年から65年の間には2500本を超えるまでになりました。

©Patek Philippe



創業者の後継者
創業者のパテックはもともと体力に恵まれた方ではありませんでしたが、1875年に貧血が悪化したため、自身の生活を維持するために後継者を指名せざるを得なくなりました。
後継として3人の従業員、シングリア、ルージュ、ケルンが会社に資本を投入し、マニュファクチュールの共同所有者となりました。
1877年、パテックは65歳で亡くりました。そのとき、20歳の息子のレオンは入社を望まず、終身年金を受け取る代わりに全ての権利を会社に譲渡しました。
一方の創業者ジャン・アドリアン・フィリップは1890年に引退するまで時計の創作を続けました。その後、息子のジョセフ・エミール・フィリップが彼の跡を継ぎました。
1901年、パテック・フィリップは、当時慣習となっていた、株式会社の形態を採用することを決定しました。
A.ベナシー=フィリップが会長を務め、ジャン・ペリエ、フランソワ・アントワーヌ・コンティ、ジョセフ・エミール・フィリップ、そしてアルフレッド・G・スタインが取締役を務めました。
スタインは、パテック・フィリップの時計を米国で販売するニューヨーク支店を統括していました。
1915年にはクロノメトロ・ゴンドーロ、1925年には、腕時計初の永久カレンダー、1927年には腕時計クロノグラフを完成させます。
ジョセフ・エミール・フィリップの死後、息子のアドリアンが創業者一族の最後の後継者となりました。
1932年、世界的な経済危機の影響で会社は財政難に陥り、買い手を探しました。
スターン時代の始まり
1929年のウォール街大暴落、別名ブラックチューズデーは、米国史上最も壊滅的な株式市場の暴落であり、世界を揺るがした12年間の大恐慌の始まりを告げるものでした。
パテック・フィリップもその災厄を免れず、多くの顧客が支払い義務を履行しなかったため、財政難に陥りました。
競合他社に買収されるのを避けるため、取締役は、当時パテック・フィリップに高品質の文字盤を提供していた「カドラン・スターン・フレール」のシャルル・スターンとジャン・スターン兄弟に連絡を取りました。両社は以前から良好な関係を築いていました。
スイスの時計製造の伝統を守り永続させたいという思いから、スターン兄弟はパテック・フィリップを支援しただけでなく、1932年に株式を取得し、1年以内にパテック・フィリップ社を完全買収しました。彼らはパテック・フィリップの経営を直ちに引き継ぐことはせず、代わりにジュネーブの時計会社タバンから引き抜いた時計職人の、ジャン・フィスターを支配人兼技術部長に迎え入れました。
フィスターは1958年に引退するまで、同社の技術責任者を務めました。
社外のマニュファクチュールからフィスター氏を迎え入れた意図は、パテック・フィリップ銘で自社製ムーブメントを作ることにありました。

©Patek Philippe

アンリ・スターン
1958年にはジャン・フィスターの退任に伴い、アンリ・スターンが会長兼最高経営責任者に就任しました。
アンリ・スターンは、マニュファクチュールに保管されていた希少でユニークな時計の収集に着手し、それらはやがて設立されたジュネーブのパテック・フィリップ・ミュージアムの基盤となりました。
エングレービング、クロワゾネ、シャンルヴェ七宝といった豪華な装飾を施した時計の需要が衰退し数を減らしていく中で、買い手がつかなくなった時計を製作者への敬意としてコレクションに加えていきました。
オークションで高値を付ける場合、メーカーが買戻しをしています。
アンリスターンはクォーツの技術に将来性を見出し、その技術開発に取り組みました。
1954年には光電式置時計の特許を取得し、1956年には世界初の完全電子式時計を製作しました。これとは対照的に、パテック・フィリップのトゥールビヨンムーブメントは、1962年にジュネーブ天文台主催のクロノメーターコンクールで世界精度記録を樹立した、まさに古典的な完全機械式キャリバーでした。
1970年にはスイス製腕時計用クォーツムーブメント「ベータ21」を発表するというプロジェクトに着手しました。
同時期には、特許取得済みのペリフェラルローター式自動巻き上げ機が発売されました。
フィリップ・スターン
アンリの息子、フィリップ・スターンは1966年、ジュネーブのパテック・フィリップに入社すると、マニュファクチュールのあらゆる業務を習得しました。
同時期のクォーツ腕時計は機械式腕時計よりも高価でしたが、1970年代に入ると価格が下降し始めました。技術開発における進歩のスピードはかつてないほど加速し、フィリップ・スターンは、変化の大きいこの世代を代表する新しい時計モデルの制作を依頼されました。
マリンスポーツの愛好家であったフィリップ・スターン氏は、パテック・フィリップのスタイルを体現したカジュアルな時計を思い描きました。
ジェラルド・ジェンタ氏にデザインを依頼し、その結果生まれたのが、「世界で最も高価な時計の一つはスチール製である」というスローガンを掲げて発表されたノーチラスRef.3700/1Aです。
1976年に発売されたノーチラスはフィリップ・スターンの職人技の結晶であり、今日に至るまでのパテック・フィリップの定番時計となりました。
1977年、フィリップ・スターンはパテック・フィリップのCEOに就任しました。
70年代のクォーツショックの最中、フィリップ・スターンは、クラシックな機械式時計がクォーツ時計に対抗できるのは、クォーツのように薄型で機能的で、なおかつ、芸術的な価値が必要と考えました。かくして超薄型のパテック・フィリップ キャリバー240は1977年に発表されました。のちに永久カレンダーRef.3940に搭載される240Qにつながる、マイクロローターを採用した超薄型自動巻きムーブメントです。
フィリップ・スターンは、エンジニアを積極的に採用し、パテック・フィリップの職人技を重視する企業から、工業製品を効率的に生産するメーカーへと変革させました。
職人技へのこだわりは維持しつつも、時計は詳細な設計図に基づいて設計され、部品は最新の機械で製造されました。
これにより、部品の再現性と品質基準が確保され、今後すべてのパテック・フィリップの時計のサービスと修理をマニュファクチュールが確実に行えるようになりました。
「機械よりも人の手の方が優れていることであれば何でも私たちはやります。しかし、機械が人の仕事を補助できるようになったとしたら、私たちは伝統に固執することはありません」と、フィリップ・スターンは述べています。
1989年、創業150周年を記念して、33の複雑機構を備えた世界で最も複雑なグランドコンプリケーションの1つ、キャリバー89を開発し、これを組み込んだ懐中時計をリリースしました。キャリバー89のオークションは、460万スイスフランという高値で落札され、時計の落札価格としては当時の新記録を樹立しました。







現代のパテック・フィリップ
1994年にはフィリップ・スターンの息子ティエリー・スターンが4代目として会社に加わりました。
1996年、パテック・フィリップは新たな国際イメージキャンペーンで、そのファミリー哲学を「世代から世代へ」と表現しました。
2001年には、ジュネーブのプランパレ地区にパテック・フィリップ・ミュージアムを開館しました。
2,000点を超える時計、スケッチ画、そして8,000点を超える時間計測に関する資料を収蔵するこのミュージアムは、完成後まもなく世界有数の時計博物館となりました。
2009年8月、ティエリー・スターンが父の後を継ぎ、社長に就任しました。
その後まもなく、ジュネーブ州の厳しい基準をクリアした時計だけが許されるジュネーブ・シールから、新しいパテック・フィリップ・シールへの移行を実施しました。
2014年10月、パテック・フィリップは創業175周年記念コレクションを発表しました。
歴史編まとめ
創業者たちが目指した「世界最高峰、そして最も美しい時計を創り出す」という目標をかかげ、パテック・フィリップはあらゆる面で積極的に活動しました。
今日の時計業界は、競争が激化するだけでなく、厳しい市場環境にも直面していますが、パテック・フィリップが今後どこへ向かうのか、非常に興味深いところです。

この記事を書いた人-
SY
イリスラグジュアリー新人時計ライター。
ブランドの歴史を研究中。


